井頭記念講演(3)  <前へ 次へ>

 

六 仁科芳雄博士
 仁科芳雄博士は一八九〇年に浅口郡里庄町で生まれ、幼少の頃から神童の誉れ高かったそうです。一九〇五年に朝日高の前身である岡山中学に入学しました。
 私が朝日高時代、何の授業中だったか忘れましたが、先生が脱線話をしてくれました。「岡中時代からこれまで、在学中の全平均点が九十点を超えた大秀才が三人いる。」他の二人の名前は忘れてしまいましたが、一人は仁科芳雄博士でした。私の母が同じ里庄出身でしたので、子供の頃から仁科芳雄博士の名前を母から聞いていましたが、朝日でその大秀才振りを再認識しました。
 仁科博士は一九一〇年に朝日を卒業し、第六高等学校を経て、一九一五年に東京帝国大学電気工学科に進み、一九一八年に首席で卒業しました。当時の電気工学は世界的に最先端学問の一つで、後世の著名な物理学者で電気工学出身の人は何人もいます。仁科博士もその一人だったのです。
 仁科博士は東京大学卒業後、理化学研究所研究生となりましたが、東大大学院生との二足の草鞋を履いていたようです。一九二一年にヨーロッパへの留学を命じられ、イギリス、ドイツ、デンマークにおいて著名な物理学者の下で物理学を研究し、一九二八年に帰国しました。
 留学中の一九二八年頃に、有名なクライン・仁科の公式をクライン博士と共同で導出しました。この公式は、ガンマ線(光)の自由電子との散乱(コンプトン散乱と呼ぶ)に関する公式ですが、現在では大学の物理学教科書に必ず載っている公式で、私も大学生の時に習いました。
 仁科博士は帰国後、日本の物理学の中心的存在となって研究と教育の両面で活躍しました。教育面では京都帝国大学で特別講義を行い、後にノーベル物理学賞を受賞することになる若き日の湯川秀樹と朝永振一郎に深い感銘を与え、両氏を含めた若い研究者の育成に尽力しました。
研究面では、理化学研究所でのサイクロトロン加速器建設を指揮し、当時の世界最大級のサイクロトロンを完成させています。第二次世界大戦後、日本の原子核研究が禁止され、仁科博士が心血を注いで作ったサイクロトロンは米軍の手により破壊され、東京湾に沈められました。仁科博士の傷心がいかほどだったか、ペレトロンと格闘した私には少しわかる気がします。
 仁科博士は一九四六年に文化勲章を受章し、一九五一年一月十日、皆に惜しまれながら病により六十年の生涯を閉じました。

七 仁科記念賞
 仁科博士の没後、博士の偉大な業績を称えるとともに、優れた研究者を育成するという博士の遺志をつぐ事業を行うため、仁科記念財団の設立気運が高まりました。吉田茂首相が設立発起人会会長となり、一九五五年に仁科記念財団が無事設立されました。
 仁科記念賞は仁科記念財団の主な事業の一つです。これまでの受賞者の中には、第一回の西島和彦博士(現在の仁科記念財団理事長、二〇〇三年文化勲章受章)、第五回の江崎玲於奈博士(一九七三年ノーベル物理学賞受賞)、第三十三回の小柴昌俊博士(二〇〇二年ノーベル物理学賞受賞)などの世界を代表する物理学者がいます。
 二〇〇二年には幸運にも、私たちも「原子核による速中性子捕獲現象の研究」業績で第四十八回仁科記念賞を受賞することができました。この研究は「宇宙元素合成と中性子捕獲反応」に関するもので、前に述べましたが、永井泰樹教授(現、大阪大学)と一九九〇年からペレトロンを用いて始めた共同研究です。
 ペレトロンのほかに特殊なガンマ線検出器を用いました。この検出器の原型は、私が博士課程一年生の時に設計・製作したものです。これまで、大きな改良を二回行い、現在の検出器の性能は世界最高であると自負しています。前にも述べましたが、ペレトロンも世界最高性能ですので、世界最高性能の実験装置を二台用いて研究を行ったことになります。従って、それまで測定できなかったものが測定できたのです。
 後で詳しく述べますが、私たちの最初の研究対象原子核は炭素十二でした。実験装置が揃っていたので、研究を開始して三カ月で重要な結果を得ることができました。早速その結果を論文としてまとめて学術誌に投稿するとともに、宇宙物理学分野の権威でノーベル物理学賞受賞者のファウラー教授(カリフォルニア工科大学)にも原稿を送りました。すると、ファウラー教授は私たちの研究成果を非常に高く評価してくれ、翌年、私たちの実験室を訪問してくれました。また、日本滞在中、ファウラー教授は全国のいろんなところで私たちの成果を宣伝してくれました。
 炭素十二を含めて、宇宙元素合成研究で特に重要な原子核であるリチウム七と酸素十六についても、一九九五年までに重要な成果を得ることができました。そして、宇宙元素合成研究が進展するにともなって、私たちの研究成果の重要性がますます増大して、仁科記念賞受賞に至ったのです。
 仁科記念財団から受賞の連絡をいただいた際の受賞業績は、「原子核による速中性子非共鳴p波中性子捕獲現象の発見」でした。しかし、プレス発表では少し変更することになるかもしれませんとの説明でした。結局、「非共鳴p波中性子」が一般の人に分かりにくいので省くことになったようです。これを省くと「発見」ではまずくなるので、「研究」に変更したものと推察されます。