井頭記念講演(2)   <前へ 次へ>

 

二 私の岡山時代
岡山市紺屋町(現、天瀬南町)で生まれ育ちました。子供の頃から、何故か理由は分かりませんが、天文学者に憧れていたような記憶があります。
出身中学は岡輝中学校です。陸上競技部で一所懸命練習をしていた記憶がありますが、勉強に対しての記憶はあまりありません。ただ、英語については、「役にも立たない英語を何故勉強しなければならないのか?」と考えて、ほとんど勉強しなかったことを覚えています。当時の岡山では中学生が外国人に会うことはほとんどなく、英語の必要性は全くなかったのです。数学も生活に役立つとは思いませんでしたが、論理的な考え方には非常に興味があったことを覚えています。とにかく、記憶力の良かった中学時代に英語を勉強しなかったことが人生最大の不覚で、今日まで響いています。
朝日高には一九六七年に入学しました。大西(旧姓、二宗)淑江先生と同窓です。私は人生の中で朝日高時代だけは勉強とスポーツを両立させたと自負しています。陸上競技部では早瀬節男先生の指導を受け、四〇〇メートルの選手として活躍したつもりでいます。英語については中学時代の付けがまわり、とにかくこつこつと勉強せざるを得なかったことを覚えています。好きな科目は数学と物理でした。数学の難しい問題の解答を一日中考えていたこともしばしばありました。東工大を知ったのも、難しい数学の問題を通じてでした。一九六九年の東大入試が学生紛争のために中止となったことも一因で、東大には魅力を失い、東工大の第一類を受験し、一九七〇年に朝日高を卒業しました。

三 大学・大学院生時代
大学二年生進級時に、数学と物理の両方を学べる応用物理学科(以降、応物)に所属しました。応物は東工大の中では異色で、例えば東工大出身の政治家は現在のところ二人だけですが、この二人とも応物出身です。数年先輩が民主党代表の管直人衆議院議員、同窓でかなりのつき合いがあったのが広島の斉藤鉄夫衆議院議員です。数学と物理の両方への興味から応物に所属しましたが、まじめに過ごした朝日高時代の反動からか、大学生活は麻雀と陸上競技で過ごしてしまいました。ただ、卒業論文研究には集中しましたし、学部授業ではあまり扱わないテーマについて数人の友人と勉強会を開いたこともありました。
勉強をあまりしなかったにもかかわらず、友人に恵まれたこともあり、一九七四年に応物を無事卒業しました。当時でも東工大卒業生は半数以上が大学院へ進学しましたので、私も迷わず、卒業論文研究でお世話になった原子炉工学研究所が運営する大学院理工学研究科・原子核工学専攻の修士課程に進学しました。修士課程修了後には博士課程に進学しましたが、二年一カ月で退学しました。博士課程二年生の終わり頃に、研究室に助手として残らないかと誘われたためです。当時、博士論文研究に使用する予定の、後で少し詳しく述べますペレトロン加速器の建設・調整がうまくゆかないため博士論文の目処が立たず、そろそろ身の振り方を考えなければと考えていた矢先でした。一瞬躊躇しましたが、適当な時期にやめればいいと考えて助手の話をお受けしました。
 退学するには退学手続きを行い、授業料を払う必要があります。のんびりした話ですが、研究室の先生も私も退学手続きのことを忘れていて、気付いた時には三月末に退学できないことになっていました。しかたなく、四月末で退学しましたが、この一カ月の差で、四〜九月までの半年分の授業料を払わなければなりませんでした。知り合いの事務官に聞いたところ、事前に手続きを行えば一カ月分の授業料を払うだけでよかったそうです。巧く対応しなかったために損を被った典型だと反省しました。

四 ペレトロン加速器との格闘
 前に述べましたペレトロン加速器(以下、ペレトロン)はバン・デ・グラーフ型と呼ばれる加速器の一種です。私たちはこのペレトロンを用いて種々の研究を後に行うのですが、このペレトロンの調整を博士課程二年生の時から任されました。助手になってからも二年間、合計三年間、ペレトロンの当初予定性能を引き出すために私の全時間を投入して没頭しました。まず、ペレトロンの各部分の特性試験を行い、各部分の基礎特性・性能を明らかにし、改良すべき箇所は改良し、また、特性試験を繰り返すのです。そして、各部分を統合して加速器全体としての特性試験を行って特性・性能を明らかにし、全体の調整を繰り返し、最終的に加速器全体としての性能を十分に発揮させるのです。加速器の教科書には原理的なことしか書かれていませんので、全ては自分で考えなければなりません。この時、子供の頃からの論理的思考訓練が非常に役立ちました。とにかく非常に大変な三年間で、夢の中で問題点を解決するアイデアが何度も生まれましたし、私の青春を賭けた仕事と言って過言ではありませんでした。その後の私にとって良かったか悪かったかは判断できませんが、研究者として最も大切な時期をペレトロン調整に当てたのです。
現在のペレトロンは、当初予定性能の数倍の性能で長時間安定に稼働させることができます。類似の加速器では、世界最高性能であると自負しています。最近では、同種のペレトロンを使っている研究者のみならず、ペレトロン製造会社の技術者までが性能向上の相談に訪ねて来る状況です。
欧米の研究者は決して加速器にはタッチしません。加速器の調整・運転などは全て技術者の仕事です。研究者の出番は、加速器で加速されたイオン・ビームを利用するところから始まります。日本でも恵まれた研究機関では欧米と同じです。私たちは、加速器に関する全てを自分たちで行っています。良し悪しは別として、この点が私たちの特徴です。

http://www.nr.titech.ac.jp/~iga/pelletron/pelletron.htm    
(詳しくはここを見て見よう!)


五 私の現在
 私は原子炉工学研究所に所属していますから、あくまでも公式な専門は原子力です。少し詳しくいえば、原子力システム研究開発の基礎基盤を支える中性子核データが専門で、とりわけ中性子捕獲反応を得意としています。物理学と原子核工学が重なった領域に位置する専門分野ですので、以前から、関連した原子核物理の研究も行っていました。一九九〇年から、当時は東工大・応物だった永井泰樹教授と宇宙元素合成の共同研究を始めました。
 私も研究室を持っていて、主に大学院生を指導しています。私の教育方針は、学生の長所を伸ばすことです。短所を克服することも重要ですが、伸び盛りの学生には長所を伸ばすことが適していると考えています。また、自分で考えて自分で行うことは研究者・技術者にとって非常に重要なので、学生の自主性を大切にしています。ただ、学生の指導を怠ると、自主は放任になり、これは最悪です。忙しくても、適切に学生を指導するよう心がけているつもりです。
 私の特徴は、声が大きくて内緒話ができないことです。助手の頃、同僚から「井頭さんが電話していると玄関で聞こえる。」と言われたことがあります。私の部屋は三階で、玄関はもちろん一階です。私の講義に対してのアンケートで、声が小さくて聞こえにくいという項目に印しを付けた学生がいましたが、この学生は常に居眠りをしていて、私の授業を夢うつつで聞いていたものと解釈しています。
 短所は、期限が迫るまで手を付けないことです。宿題を提出前夜に片づける習慣が今も続いています。期限の数日前までに片づけたいと常に思っていますが、いつも複数の締め切りに追われている現在は無理のようです。
 趣味は特にありません。土日祭日も仕事に追われている現在は趣味を持つのは難しいと思いますが、老後のためにも何か持ちたいと思っています。

  これがペレトロン加速機 大きいでしょ!

2004.2